歴史

三星グループの自動車業界への進出計画は以前からあったが、長年にわたり自動車産業への参入を時々の政権に阻害され続けてきた。

しかし、当時会長であった李健煕の強い意志のもと、1990年代より計画実現が徐々に現実味を帯びていくこととなり、当時の大統領である金泳三の支持基盤である釜山を工場建設地に指定し、1994年末に日本の日産自動車からの技術導入による自動車産業への参入を申請した。

政府内部では自動車産業の過剰投資を憂慮する反対論が根強かったが、既存の政府主導による産業政策から産業自由化政策へ転換すべきとの自由化論が優勢となり、三星は自動車産業参入の認可を手に入れた。

1997年末の通貨危機を経て、1998年3月から同社初の乗用車であるSM5の生産が始まり、同年に約4万台が生産されるも、通貨危機で内需と輸出が激減し1998年末には大宇電子との事業交換で合意し、その後の6ヶ月は操業中断状態にあった。 そして2000年、三星自動車は会社設立から約6年、操業から1年4ヶ月で経営破綻した。

ルノー=日産アライアンスとルノーサムスンの誕生

1990年代後半にデザインや商品戦略などの相次ぐ失敗で販売不振が深刻化し、経営危機がささやかれた日産自動車が1999年3月にフランスのルノーと企業同盟を結び資本提携した。

その後のアジア経済危機により三星自動車も上述のような形で経営破綻し、ルノーが株式の80.1%を取得して筆頭株主となった(残19.9%は三星グループが保有)

ルノーから引き受けを拒否された商用車部門(=サムスン商用車。工場は大邱広域市達西区にあった)が大邱地方裁判所から破産宣告を受けて事実上倒産し、撤退すると同時にルノーグループとサムスングループの間で合弁契約とサムスンブランドの商標使用許諾契約を締結したことでルノーの傘下となり、社名を「ルノーサムスン自動車」に変更して現在に至る。

このアライアンスによってすべてのルノーサムスン車には(エンジンやプラットフォーム、4WDシステムなど)日産自動車の技術が多用されてはいるものの、実は日産とルノーサムスンの間に直接の資本関係はない。

なお、ルノー傘下に入った後も当面は日産車のバッジエンジニアリング車を作り続けていたが、QM5以後の新車種はルノーと日産との共同開発としている。

合弁契約と商標使用許諾契約

2000年、ルノーグループとサムスングループの間で合弁契約とサムスンブランドの商標使用許諾契約を締結したことで「ルノーサムスン自動車」に社名変更し、ルノーの傘下となったが、その理由はルノーサムスンにとっては「サムスンという絶大なブランド力を生かし、韓国市場で高いブランドイメージを維持できるから」であり、三星グループにとっては「ルノーサムスンと自動車用電子部品分野で開発や生産などにおける協力関係を拡大していくことができるから」という双方にとってプラスとなる要素が合致したためである。

この契約は本来、2010年まであったが、国内生産ならびに2006年から本格的に開始した輸出とも非常に好調であったことと、サムスンとルノーサムスン双方のブランド力堅持のため、2009年6月には契約期間を2020年まで延長させている。よって、サムスンの商標は少なくとも2020年までは使用可能となった。

尚、ルノーサムスンは最終利益が発生した場合、売上高の0.8%を商標使用料として三星グループに支払う契約となっている。

海外への輸出

従来、ルノーサムスンブランドの車種は主に国内向けに出荷されており、海外への輸出はチリなどごく一部の国・地域に留まっていた。

しかし、ルノー・日産グループはルノーサムスンで製造した車種を日産およびルノーブランドにリバッジして輸出を拡大する方針を採ることにし、まず2006年からSM3が日産ブランドの「アルメーラクラシック」として輸出開始された。

続いて、ルノー/日産と共同開発したSUV・ルノー・コレオスの製造が全量ルノーサムスンで行われることになり(国内向けはルノーサムスン・QM5)、2008年から2010年までは2代目SM5がルノー・サフランとしても輸出された。また、2010年からはSM3 CEがルノー・スカラとして、3代目SM5がルノー・ラティテュードとして輸出が開始されている。

沿革

ルノーサムスン

種類 株式会社
本社所在地 韓国
本社・工場 - 釜山広域市江西区信号洞185
ソウル本社 - ソウル特別市瑞草区良才洞231
設立 1994年(ルノーサムスンとしては2000年-)
業種 輸送機器
代表者 ジャン・マリー・ウェルティジェ(:Jean Marie Hurtiger、社長兼CEO)
売上高 2兆8010億ウォン(2007年)
営業利益 2170億ウォン(2007年)